今週のごあいさつ

目に見えない心のお話し

 若い頃に聞いた話の中には、その時にはよく意味がわからなかったことなんかもあって、なんとなくわかっているフリをしてやり過ごしていたことがあったりするのですが、そういう言葉が何年も後になってから、「あ、そういうことだったのか。」と気がつくことがあります。

 その中の一つが「目に見えない心のお話し」という言葉。

 これは私の師匠が一時期よく使っていた言葉で、法話の中に「目に見えない心のお話しを大切にしましょう」なんておっしゃっていました。

 これがわかるようでよく意味が分からない。言葉自体は難しくないのだけれど、それが具体的に何を指しているのかがわからなくて、自分の中で未消化のまま長い時間を過ごしていました。

 それがつい最近、「あ、そういうことか。」と自分の中で腑に落ちたので、そのことをご紹介します。

 金毘羅院でもここ数年でお葬式を受けることが多くなりました。もともとうちのお寺はご祈祷が中心だったので、お葬式を受け始めた頃は少したどたどしいところもあったかもしれませんが、最近は自信をもってつとめられるようになりました。

 このお葬式ですが、例えば仏式の葬儀だけでも色んなやり方があります。宗派によっても違ってくるし、同じ真言宗でも微妙にやり方が違うものです。

 それが神式になれば全然違ったものになるし、キリスト教やその他の宗教が行う葬送の儀式もそれぞれ独自のやり方があります。

 葬儀を受け始めた頃は、慣れないこともあり、「ちゃんと出来ているかな、大丈夫かな」と不安になることもありました。

 特に「自分のやっている作法で正しく魂の冥福を祈れているのだろうか。」と不安に感じていたように思います。

 ただ今になって思うのは、これだけたくさんの宗教・宗派でそれぞれの葬送儀礼がある中で、あまり正しい正しくないを考えても仕方のないことだな、というふうに思うようになりました。

 亡くなられた方の霊魂という目に見えないものに祈る中で、その魂がしっかりと成仏したのか、していないのかというのは、葬儀を行う我々にも目で確認できるわけではありません。

 ただ結果が目に見えないからといって、葬送の儀礼をやらなくてもいいのかというと、それはやったほうがいい。目には見えなくても、儀礼を行うことによって亡くなった人の魂も、それを見送る親族も、心の平穏を得ることが出来る。

 葬儀以外でも例えば神話に登場する神々のお話しなんかも、読めば現実的にはあり得ないことばかりですが、そういうこともあったほうがいいなと思えるのであれば、本当だとか嘘だとかを通り越して、そういうものなんだと納得した方が心が豊かになる。

 そういった目にはみえないけれど、あった方がいいことや、そのことで心が豊かになることをまとめて、「目に見えない心のお話し」という言葉で表現したのではないか。そんなことに最近気がつきました。

 そう思うといい言葉ですよね、目に見えない心のお話し。

 師匠がどういう思いでこの言葉にたどり着いたのかも、機会があれば聞いてみたいです。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。       合掌