今週のごあいさつ
月のように清らかに
今日はお彼岸のお中日です。こちらでは朝から雨が降り、お墓参りにはあまり適さない日となりました。
それでも倉吉では、しばらくまとまった雨が降っていなかったので、これで少しは涼しくなるのかなと期待します。暑さ寒さも彼岸までといいますが、9月に入っても暑さが厳しすぎたので、彼岸を境に気温が落ち着くことを祈るばかりです。
ただ、場所によっては災害となるような雨が降っているので、重苦しい気持ちにもなりますね。暑すぎるのも、雨が降りすぎるのも、困ったものです。
さて、先日は中秋の名月で、お天気も良かったことから見事な月を見ることが出来ました。
月に関しては猛暑もあまり関係なく(もしかしたら今後影響がでたりするのかもしれませんが)きれいに見えますね。
仏教と月というのは関係が深く、仏教を開いたお釈迦様は、満月の日に生まれ、満月の日に悟りを開き、満月の日に涅槃に入られたという言い伝えもあります。
真言宗でも月輪観という瞑想法があり、満月を心にイメージして行う瞑想があります。
お大師様は著作の中で「仏の教えというのは遥か遠いものではなく、本来自分の心に備わっている身近なものなんだよ」と説いておられます。
その教えが月を悟りの象徴として説かれます。
満月は夜空にありのままのものとして煌々とのぼっています。けれども雲が覆ってしまえば、その月を見ることが出来ません。
私たちの心も、ありのままにあれば、本来備わっている仏の教えを活かして清らかな心のまま生きていけるのですが、長く生きるうちに様々な迷いや不安、苦しみを経験し、煩悩という厚い雲で心を覆ってしまうことになります。
陰りのない月のような心を目指すのではなく、もともとその月が自分の中に宿っているんだよという教えは、ともすれば自分を低く見積もってしまう現代の日本人にとっては、なんだかとても勇気をもらえるような教えだと思っています。
それにしても秋の月というのは、宗教的な教えがなくても、ただそれを見るだけで、何か荘厳な気持にさせてくれますね。
以前、一般の方なのですが、満月の夜には山奥の川に入って禊をしているという方の話を聞いたことがあります。
自分がそれをやるかと言われると、そこまでやる勇気がわかなかったのですが、それでも澄み渡った月夜の晩に、清らかな川で身を浄めるというのは、すごく清浄なきもちになるのだろうなと憧れたのを覚えています。
これから冬にかけて、見事な月を見る機会が増えていきます。
よければ、自分に備わっている清らかな心を思い出してもらえればなと思います。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。 合掌