今週のごあいさつ
「わかっていない」の中で
こういうことはわりに色々な場面で感じたり、あるいは文章などで目にする機会も多いのですが、自分の身近な人、家族や友人などのことって、どれだけ一緒に過ごす時間が長くても知らない一面やわかっていない一面がたくさんあります。「あ、こういうことに対して腹を立てたりするんだ。」とか「こういうことを面白いと思ったりするんだ。」とその状況になって初めて知るようなことが、どれだけ身近な人でもあります。
そういう時になって改めて「自分はこの人のことを分かっているつもりでも、知らない一面っていっぱいあるんだな。」と感じます。
それで、こういうことって他人だけに感じることではなくて、自分自身にも同じことが言えます。
このエピソードが例えとして適切かはわかりませんが、先日子どもの通う保育園で運動会がありました。その中で保護者参加の競技があり、私は綱引きに参加しました。何年ぶりにする綱引きでしょうか。腰を落として一生懸命引っ張って、勝ったり負けたりしながらもなかなか楽しかったです。
体を動かした手ごたえもあり、まずまずの充実感を得て保護者観覧席に戻ると妻から、「綱引きしている時のあなたの姿、へっぴり腰でかっこ悪かったわよ。動画もとっておいたから後で見てみたら。」と半笑いで言われました。
綱引きをしている時、自分の中ではしっかりと腰を落とし足を踏ん張り、上半身は後ろにしてかっこよく引っ張っているつもりでやっていたのですが、傍から見ると全く違ったようです。見るのが怖くてその動画はいまだに見ていません…
自分自身のことだからわかっているつもりでも、自分が頭の中に描く自身の像と、他人から見た自分は随分違うようです。自分のことはだいぶひいき目に見ちゃうんでしょうね。
立ち姿だけではなく、心の中だって自分のことは実はよくわかりません。普段はおおらかで優しく誠実につとめようと思っているのに、本当につまらないことで腹をたてたり、大したことのないことにケチケチして物惜しみしたり骨惜しみしたり、おおよそ自分自身が理想としている心持ちからはかけ離れた心の動きをしてしまいます。
どんなに身近な人だろうと、あるいは自分自身であろうと、わかっていないことは山ほどあるようです。
そこからちょっと飛躍しちゃうかもしれませんが、自分の足(ここでは足首から下の部分)ってどんな形しているかはっきりわかりますか?
手であれば目にする機会も多いのでなんとなく思い浮かべることが出来ますが、足って、自分の体の一部なのに普段は靴だったり靴下に覆われていてあんまり目にすることがありませんよね。
例えば(こんなことは絶対ありませんが)足の展示会みたいなものがあって、そこにはたくさんの棚にあらゆる人の足が飾られていて、その中に自分の足も展示されている。では、はたしてそのたくさんの足の中から自分の足を見つけることが出来るでしょうか?
自信ないですよね。自分の体の一部なのに。
そんなことを想像するとなんだか足が気の毒になってきます。
ただここで言いたいのは、じゃあ毎日一時間自分の足を眺めまわしてしっかり自分の足をわかってあげよう、ということではなく、たとえわかっていないことが多くっても感謝や敬意を持つことは出来るということです。
身近な人でも自分のことでもわかってないことはたくさんあります。しかしだからと言ってわからないことを無くし、全部を理解しないといけないのかというとそうではないと思うのです。
大切なのは、わからなくてもそれらに対して感謝と敬意を持ち接すること。そして自分の知らない一面が見えたとしても、そこで腹を立てたり、「こんな人だと思わなかった」とショックを受けた入りすることなく、受け入れてあげること。
自分が分かっていることだけが正しい事ではないのですから。
私以外の人たちも、私自身も、みんながみんな私と同じように一生懸命やっています。だから「私がそうして欲しいのと同様に」他の誰かにも感謝と敬意を抱いてあげましょう。
そして我が偉大なる足にも、いつもありがとう、とちょっとでいいから思ってあげましょう。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌