今週のごあいさつ
あきらめ上手になろう
先日人と話していて、「上手に諦められるようになると楽ですよね。」という話になりました。
「あきらめる」と聞くと、どうでしょう?やっぱりネガティブというか、マイナスなイメージのある言葉としてとらえてしまいますよね。「負け」のイメージもあるかもしれない。
だけど最近個人的に、「いろいろあきらめちゃおう」「すぐあきらめよう」という気持ちが強くなっています。
なんというか、「こうであらねばならない」とか「こうあるべきだ」みたいな気持ちがどうしたってわいてくるわけです。
「もっと大切にしてもらいたい」でもいいし、「もっと自分は評価されるべきだ」でもいいし、「自分」が全面に出るような思いというのは、大なり小なりみんな持っていると思うのです。
だけど、そういう思いを満足させようと思って物事に臨むと、だいたい都合よくはいかなくなって、最終的に自分が苦しむようになります。
相手がいることであれば、自分の思うとおりに相手がしてくれない。もっとああしてほしいのに、もっとこう言ってほしいのに。そんな不満が溜まっていきます。
そういった、ああして、こうして、という思いを最初のうちからあきらめてしまおう、というのです。何も夢や目標を途中であきらめろ、挫折しろと言っているわけではなく、何だか知らないし、特に根拠はないんだけどこうあるべきだ、と思っていることを手放してしまったほうが肩の荷がおりて、気持ちも楽になるのではないかということです。
何度かここでも書いていますが、仏教において「諦」という字は、「ものごとをあきらかに見る」とか「真実をあきらかに見る」といった意味で使います。
私たちが普段思っている「諦め」というイメージとずいぶん違います。
だけど考えようによってはちゃんと意味はつながっていて、私たちは生きているなかで、すべてが自分の都合通りになるわけではない。というのはあきらかな真実、真理と言っていいと思います。だけどそれが言葉ではわかっていても心から理解できないから、不満が出たり苦しんだりするわけです。
だから、ものごとの真理をあきらかに理解するためには、自分の都合通りになるべきだ、という思いを諦めることから始まるのではないかと思います。
もちろんあきらめることだって苦しい。そんなに簡単に手放せられるならこんなに苦労はしていない、と思うこともありますが、手放せないほうがずっと苦しい。最近はそう思うようになりました。
物の断捨離はよく言われますが、余分な欲の断捨離も、やればずいぶんスッキリしますよ。
私はとりあえず、年齢より若く見られようとか、必要以上に年を重ねることに対して抵抗することをあきらめました。
こんなふうに見られたいって欲は、それなりにあったんですよねぇ。でもないほうが楽です。そのかわり、見た人が不快になるような見た目ではないように気を付けています。それは欲とはちょっと違ってると思うんですよね。まだうまく説明できませんが。
みなさんもあきらめ上手、目指してみませんか?
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました 合掌