今週のごあいさつ

偉くならないための掃除

落ち葉がピークの頃となりました。街路樹のある通りなんかは地面がえらいことになっていますね。職業柄なのかあのような落ち葉の積もった状態を見ると「きれに掃きたい!」という衝動がおこります。箒や熊手を使って一か所に集めたらどんなに気持ちがいいだろう、と思いながら通り過ぎたりしています。人には言えない欲望というやつですね。

とはいえ落ち葉掃きって結構面倒です。特に今ぐらいの時期は掃いたそばから葉が落ちてくるのできりがありません。本当は落ちた葉がいずれ木の養分となるのでそのままにしておいた方が木のためになるのでしょうが、落ち葉の散らばる境内では具合が悪いので、人間の都合ではありますがせっせと落ち葉掃きにいそしみます。

お坊さんのイメージって衣を着てお経を拝む姿を一番に思い浮かべると思うのですが、落ち葉を掃いている姿も浮かんできませんか?

昔から日本のお坊さんは掃除を修行の一環としています。禅宗が特にその傾向が強いですが、私の修行した真言宗のお寺でも掃除のことを「別行(べつぎょう)」と言っていました。

お経を読んだり滝に入ったり、集中して行法をするのとは別に、掃除も修行の一環だということで別行というのでしょう。朝のおつとめが終わった後と夕方のおつとめが始まる前にだいたい一時間ずつ、別行の時間がありました。

掃除という行為を修行の一環とする理由は多数あると思いますが、その一つに「偉くならないようにするため」ということがあると思っています。

会社でもなんでも組織の中で掃除をする人というのは、だいたいその中の下っ端の人だったりします。そして組織の中で立場が上になるほど「掃除なんて自分のする仕事じゃない」と思ってしまったりします。(家の中の掃除は別ですよ。家の中は住んでいる人みんなできれいにした方がいいです)

しかし掃除は修行なんだと見なすことで「俺の仕事じゃない」というおごりを抑えることができる。それが一つの狙いなんじゃないかと思っています。

確かに雑巾がけをしている姿勢というのは地べたに這いつくばるようなかっこうになります。「自分は偉いんだ」と思っているとなかなかできる格好じゃないですよね。

お坊さんも時と場合で「先生!先生!」と持ち上げられたりします。それをそのまま受け取ってしまうと段々偉そうになってしまう。そうならないための抑止力に掃除が一役買っているのですね。

仏教をひらいたお釈迦様は弟子たちに「自分はみんなの友人の一人として、ともに修行をする仲間だ」と言ったといいます。

一教団の開祖、教祖というと「私の言うことは絶対だ。私の言うことを聞きなさい」と言いそうなイメージがありますが、お釈迦様はそうではなく、教えは説くけれども立場はみんなと同じなんだよ。我々は友人なんだよ。という立場をとられます。それが仏教のいう「平等」なのだと思います。

我々僧侶もどなたとでも平等な立場であり、そして友人の一人である。そのような姿勢で常々あらねばならないと考えています。

そしてそれを忘れないために日々掃除に励み、その結果として綺麗な境内で気持ちよくお参りをしていただければ、これほどよい循環はないなと思っています。

お寺というのは敷居が高く入りにくいと思っておられる方も多いでしょうが、気軽に友人の家にたずねるように来ていただければ幸いです。

今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。

合掌