今週のごあいさつ

そんな看板あったっけ?

 ようやく暖かくなったかなと思ったら、また今週はお天気が崩れるようですね。お彼岸に入ったのでお墓参りされる方も多いと思いますが、雨が降らなければいいですね。

 

 今年の一月よりお寺の前の道が長期の工事に入り、鳥取短期大学から降りてくる道が通行止めになりました。お寺に来るには倉吉駅の裏から来ていただけるのですが、駅裏から短大へは通り抜けができなくなりました。

 もともとこの道は抜け道みたいな感じで使われていたので、この通行止めによって不便を感じる人も多いと思います。

 実は通行止めが始まる前からわりと目立つように「この期間から通行止めになります」という看板が数か所に出ていて、ご丁寧に「金毘羅院までは行けます」という看板も設置してくれています。

 だけどどれだけ目立つ位置に看板があっても目に入らないものなのでしょう。1月中頃に通行止めが始まった時には、それと知らずに入ってきて、通行止めだとわかってお寺の駐車場でUターンして戻っていく車が多くありました。

 今でもちらほらUターンする車を見かけます。

 こういうことは、私も経験があるのですが、看板はおそらく目に入っているのでしょう。ただそれが自分に関係のあることとしては認識されないんじゃないかと思います。

 見えているけれど見えていない。

 だからお寺の駐車場付近まで入ってきて、そこから進めないとわかって初めて、あの看板の意図がわかる。そんな感じなのだと思います。

 それは、その人が別に注意力散漫な人だということではなく、人はどれだけ目では見ていても、自分に必要なものだと思わない限りは自分の中には入ってこないものだということです。

 たまに、見たものすべてを記憶しておける人がいると聞きますが、それはとても珍しいケースで、一般の人は、もちろん私も見るものすべてを理解しているわけはなく、目では見ていても見落としているものは山ほどあるのでしょう。

 というよりもほとんどのものを見落としていて、その中から自分の見たいものだけ、意識しないまま選り取っているのだと思います。

 人は自分の見たいものしか見ない。なんて言われることもありますが、それは別に悪いことではなく、人というのはそういうものなのです。だから同じ景色を見ていても、人によってはまるで見え方が違ってくるもので、それに正しいとか間違いというものはないのです。

 だけど自分の見え方こそが正しいと思ってしまうと、それが間違いのもとになってしまいます。

 人と接すれば意見が違うこともありますが、それはどっちかが正しくてどっちかが間違っているのではなく、人それぞれの見え方が違うというだけなのだと思います。

 だけどしばしば自分のほうが正しいと言って争いになることもあります。そうならないよう注意して、「なるほど、この人はこういう見方をしているのか」と興味を持てればいいですよね。

 たまにお寺の駐車場でUターンする人の中には「納得いかない」という顔をしている人もいます。その気持ちはわかります。だけど、「あの看板見えてなかったなぁ」と自分の不完全さを面白がるのも一つの手なんじゃないか。なんて考えています。

 通行止めは来年9月まで続きます。不便ですが、広い道になることを楽しみにして待ちましょう。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございます。          合掌