今週のごあいさつ

春のお彼岸 供養について思うこと

春のお彼岸の最中ということで今週もご供養の話を。

先週「亡くなった親しい人を供養したいと思う気持ちは人の心の自然な営みだ」ということを書いたのですが、自分で書いてみてつくづく本当にそうだよなと思っています。

大切な身内や親しい人が亡くなったときに、その人の冥福を祈る気持ちは自然にわいてくるものです。例えばそれは「亡くなった後も幸せでありますように」とか「無事天国に行けますように」とか「成仏できますように」という想いになったりするのでしょうが、いずれもその人を悼む気持ちの表れで、それはあってしかるべきものだと思います。

だから本来亡くなった人と残された人との距離はその想いがあるほど近くなるのだと思っています。

ただその想いを宗教的なものだと思ってしまうと距離感が変わってきてしまいます。

「冥福を祈るためには決まった手順を踏んでお坊さんにおがんでもらわないといけない」とか「こんな格好をしてこのような姿勢で故人の身内としてふるまわなければいけない」といった「こうでなければいけない」が先に立ってしまうと元々の亡くなった人に対する想いの距離が遠くなってしまいます。

あるいは金銭的なことで「お葬式をあげるにはこれくらいのお金がかかる」「法事や月参りでお布施はいくらつつまないといけないのだろうか」といった心配まですると距離が余計に遠くなります。

このように本当は亡くなった人と残った人の想いの距離は近いはずなのに、その間にしきたりや家のしがらみ、金銭的なことなどが入ってしまうと想いの距離がどんどん遠くなってしまい、供養をすることが負担になってしまいます。

日本では長く仏教が葬送儀礼に携わってきました。冥福を祈る気持ちに仏教の儀礼を取り入れることでその想いを形にしてきたのだと思います。しかし近年加速度的に葬送儀礼に対する考え方が変わってきています。家族葬の増加や樹木葬などの埋葬の変化、檀家制度の見直しなど葬儀をとりまく状況が変化してきています。

その変化を見ると供養をすることが負担になっている人が多かったのだろうと感じます。

葬儀やお墓を担うお寺としては供養に負担を感じることなく、出来るのであれば亡くなった人と残された人の想いの距離が、お寺があることによってより近くなるような、そういう場所にお寺がなればいいなと思っています。

そのために「祈りの場所の提供」と「想いを汲んだ供養の仕方」を取り組んでいかなければと考えています。

春のお彼岸でお墓のお参りがとても多かったです。お参りされる皆さんが「お参りに来たい!」と思ってもらえる場所であればこれほどうれしい事はありません。そうなるよう頑張っていきます。

今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。

合掌