今週のごあいさつ
なぜ生きることは苦しみなのか
先週お釈迦様の大切な教えである「四聖諦」の説明をし、それは苦・集・滅・道の四つの真理のことだということを書きました。
今週はその続きで四聖諦の最初、「苦諦 生きることは苦しみだ」という真理の説明をします。
そもそもいきなり「生きていることは苦しみですよ」と言われてもパッと実感は出来ないですよね。確かにそうなのかもしれないけれど、あっさりと認めてしまうのは抵抗がある。と考える人の方が多いのではないでしょうか。
実はお釈迦様が「苦」を説くときには「苦」と合わせて語る言葉があります。
それが「無常」と「無我」です。
「無常」とはあらゆるものは同じ状態を保つことなく変化し続けているということ。
「無我」とはあらゆるもの自分ではない(自分のものではない)ということ。ちょっと意訳をすると自分の人生は自分が主人公であるけれど、世界は自分を中心に動いているわけではないということ。
無常も無我も説明を聞くと当たり前のことだと思うでしょう。でもそれは客観的に聞いているからそう思うだけで、これが自分のこととなると途端に理解できなくなってしまうのが人間の性質なのです。
どういうことかというと、例えていえば今私には3人の小さい子どもがいます。まだ全員小学生にもなっていないので何かと手がかかります。手がかかるので腹の立つこともあるけれど無邪気に親を頼ってくれることを可愛く、そして嬉しく思っています。
しかしこれから段々と成長していくとおそらく今と同じ状況にはならないでしょう。思春期になればあまり口をきいてくれなくなるかもしれない。他県に進学すれば親元も離れるでしょうし、将来的に親の思う道に進まないこともあるかもしれません。
そうなったときに「あぁ、あのころは無邪気で可愛かったのに今は口もきいてくれない。」と嘆いたり「こんな仕事をさせるために育ててきたんじゃないのに。」と後悔することもあるかもしれません。
でもこれ、先に言っている「無常」と「無我」を心から理解していればこんな思いを抱くことはないはずです。
常に変化し続けているのだから子どもがいつまでも同じ状態じゃないことは明らかなことです。そして子どもが自分の思うとおりに育たなくてもそれも当然。自分の思うとおりに世界は動いていないのですから。
無常も無我も客観的に見れば当たり前のことです。先に書いた子どものことだって他人がそのように悩んでいれば「それは仕方のないことだよ」と言ってあげられます。だけどいざ自分のこととなるとそれがわからなくなってしまう。
本来無常であるものを「常」でありたいと願い、無我であることに「我」を見出そうとしてしまう。そこに人間の苦しみがある。
だから「無常」と「無我」と合わせて「苦」が語られるのですね。
人間は無常であり無我であることを本質的に理解できない。だから生きることは苦しみなのだ。ということが「苦」という真理です。
じゃあその「苦」って具体的にどんなことがあるのか、というのはまた来週の続きにします。
こんなに続くのも珍しいですよね。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌