今週のごあいさつ

過程にこそ、その人らしさがある

 7月になりました。毎日よく雨が降りますね。梅雨とはいえ、あんまり梅雨っぽくない降り方の雨も多く、過ごしにくさを感じています。

 なんとなく体もシャキッとしない感じがしますが、皆様いかがでしょうか。

 今月16日に夏季大祭を行います。コロナ以降久しぶりの般若心経三千巻の護摩祈禱を行います。大祭で熱祷を捧げて、身も心もシャキッとさせましょう!

 さて、熱い祈りで思い出すのが、私の修行仲間でものすごく声の大きい子がいました。

 どれくらい大きいかというと、修行仲間は全部で20人いたのですが、19人 対 彼1人で、彼の声が勝つくらいの、すさまじい声量を持っていました。

 法要をするとき教えられるのは、声を合わせることの大切さです。「お経は耳で読め」と言われるくらい、一緒に法要をしている人の声を聞いて、高さや速度を合わせてお経を唱えるようにしなさい。と教えられます。それが出来るとみんなの声が揃って、良い法要になるのだと。

 ところが、その声の大きな彼がひとたび本気を出すと、彼の近くでお経を唱えている人は彼の声しか聞こえないので、よく揃っていると錯覚しますが、少し離れたところにいると、速度もキーもバラバラで、そのうちにだんだんと彼の声に全員の飲み込まれていく。そんな状況になりました。

 さすがに毎回そうなると良くないので、彼も声を落として、人と合わせるようにお経を唱えていました。

 ただ、ご祈祷など声をあげた方が良いようなおつとめの場合には、彼の声量はとても頼もしく、気持ちのこもったおつとめができたように感じました。

 そんな彼が、ある日「みんなは僕の声が最初から大きかったと思っているみたいだけど、実はそうじゃないんだ。」という話を始めました。

 彼の実家のお寺では護摩を焚いてご祈祷をすることが多く、彼のお父さんが登壇して護摩を焚いていたのだそうです。彼はまだお坊さんになる前から護摩を焚くお父さんの横で般若心経やお不動さんのご真言を唱えておつとめをしていたそうです。

 はじめのうちは声も小さくて、私たちの知っているような迫力ある声は出なかったそうなのですが、護摩でのおつとめを続ける中で、護摩の火が自分の中でだんだんと広がっていくイメージをもって、それに合わせて自分の声も大きくなるように心がけたのだそうです。

 そうしてそれを続けていくうちに、今のような誰にも負けない声の大きさになったんだ、と彼が教えてくれました。

 その話を聞いてすごく感心したことを覚えています。声が大きいのはもって生まれた個性ではなく、彼なりの信仰があったからなんだということ。結果だけみている我々は、それが当たり前のこととして受け止めていましたが、そこにはそういった過程があって、そしてその過程こそが彼らしさをあらわしているんだと。

 普段私たちがしている人付き合いは、その人の結果の部分しか見えてきません。だけど、だれしもそこに至る過程があって、それを経たからこそ、今目の前にいるその人になっている。

 よく知っている人だって、そういう過程のところはよく知らなかったりするわけで、それを一から全部聞くのは不可能なことではありますが、ちょっとしたさわりの部分だけでも聞いてみると、その人の見方って案外変わるものだと思います。

 そんなことを教えてくれたエピソードでした。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。          合掌