今週のごあいさつ
言葉についての難しいはなし
先週、人は色々なものに名前を付けることによって、私を含めたありのままの世界を分別してしまい、結果としてそれは人の苦しみにつながってしまう。仏教はそのような言葉に対して警戒している、という話を書きました。
今週はその続き、現代は言葉に偏りすぎているというお話です。
もう少し、人が言葉によって苦しめられるということを詳しく書くと、人はある程度の年齢になると言葉を使って物事を考えるようになります。「今日のご飯は何にしよう」とか「明日までにこれをしないといけないな」とか何でもいいですけど、何かを考える時にはこんな風に言葉を使って思考します。
そこで気を付けないといけないのは、このように言葉を使って考えている「世界」というのは、「私」というフィルターを通して感じた「世界」なので、ありのままにある「世界」とは実は別物なのだということです。
この世界が別物だということを意識していないと、「私の世界」と「ありのままの世界」との差に、あるいは「私の世界」と「あなたの世界」の差に自分の思うようにならないことを感じて苦しんでしまうことになります。
なので「私の世界」は思考=言葉によって作られていて、言葉に頼りすぎるとかえって自分を縛ることになるので気を付けないといけない、と仏教では色々な言い方でそれを伝えているのですが、その教えとは裏腹に現代には言葉が溢れすぎていると思いませんか?
SNSなんてそれの最たるもので、だれもが簡単に自分の思考を発信できる時代です。でもありのままに世界を見るなら、文字なんてただの記号です。その記号に一喜一憂してしまう。心無い言葉がためらいなく発信され、その言葉に深く傷つく。
あるいはコロナによってリモートによるコミュニケーションが活発になりました。便利な面もありますが、対面で会うときのように言葉以外から受け取ることが出来る情報、表情やしぐさなど人間全体から出る「雰囲気」というものは感じにくく、やはり言葉だけのやりとりになってしまうような気がします。
言葉って便利です。だけど先週書いたように世界を言葉で表せばあらわすほど世界と私は分離されてしまいます。
その結果、言葉を使って色んな事に理由をつけようとしてしまう。そうすると「私は何のために生まれてきたのか」とか「私は何をするべきか」ということに答えがないといけないような気になってしまう。
でも、言葉の枠にいれず、ありのまま世界を見るなら、「私はただそこにいる」ことが出来ます。そう思えたら随分気持ちが楽になると思いませんか?
そんな風に感じることが出来てから「自分はなにをするべきか」という問いに向かうことが出来れば、ただの言葉で思考することよりも気持ちのいい答えが出てきそうな気がします。
瞑想というと宗教的な行為に聞こえますが、意識的に口も頭も黙っている状態を作るというのは現代人にとって結構大事なことかもしれません。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌