今週のごあいさつ
苦の原因 無明
梅雨らしい天気になりましたね。先週はすごく暑い日がありましたが、今週は少し落ち着いてくれるといいですね。
さて、長々と四聖諦の解説をしております。先週までは苦について書いてきました。苦についてばかり書いていると書く方も読むほうも段々気がめいってきてしまいますよね。
今週は苦しみの原因、「集諦」についてのお話です。
お釈迦様が悟りを開いて最初に考えたことは「十二支縁起」だと言われています。これは無明という原因があることによって最終的に老いることと死ぬことの苦しみとなるというものです。
十二支縁起の解説は諸説あってどれもそれぞれ理にかなったことを言っているのですが、ここで紹介をするとキリがなくなるので興味のある方は色々と調べてみてください。
ここで取り上げるのは「無明」という原因についてです。
この無明があるからこそ本来無常であり無我であるはずの世界が、常であり我はあるのだという錯覚を起こしてしまうと仏教では説明をしています。
この無明というのは等しく人間がもってしまっているものなので、人間は誰しもが苦しみを抱えているのだということになります。
じゃあその無明って何だろうと思うのですが、それを現代風に説明するとしたら、生き物の本能のことなのかなと私は思っています。
生き物の一番大切なことは何かというと、種を絶やさないこと。そして自分が生き残ること。そうなるために脳は種を絶やさず生き残りやすくなるよう進化をしてきました。
そのおかげで我々人類はこうして生き残っているのです。ただそこで問題なのは生き物の本能に従っているだけでは人間は幸せを感じないということです。
生き残っていくためには不安定な暮らしではいけません。安定して食べ物が手に入る状況、外敵から身を守れる状況を続けていきたいと思います。そう思えば思うほど本来無常である世界を無常ととらえられず、自分だけは今のままであり続けたいと望んでしまう原因となります。そして現状維持を望むからこそ最終的には老と死を恐れるようになり、無常であるこの世界を苦と感じてしまうのです。
また人間は群れ(社会)で生活をする生き物です。その群れの中で生き残りやすい状況を作るには群れの中で特別な存在でありたいと願います。特別な存在であろうとするほど群れの中の一員としての私ではなく、特別な私とその他大勢という見方になってしまいます。
それが「我」の原因になってしまう。
無我というのは「私はいない」という意味ではなく、「私」というのは色々な縁の積み重なりで出来ていて、「私という確かな核」のようなものが存在しているわけではない、という意味です。
しかし特別な私を意識すればするほど「我」があるのだという錯覚が大きくなります。
そんな風に群れの中で我を主張すればするほど苦しみになってしまいます。
このように生き残るために脳が作ったプログラム=本能が無明なのではないかなと思っています。
仏教ではこの無明のされるがままになることを拒み、自身の力でそれを克服していこうとします。それが「滅諦」と「道諦」です。
続きはまた次回書きます。ほんと長くなっちゃいましたね。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌