今週のごあいさつ

良い仲間を持つこと

6月になりました。上半期も今月までですね。そろそろ梅雨に入るころでしょうか。少し蒸してきました。

 親しい先輩の小学校6年生になるお子さんが、中学校を他県の寮生の学校に入ることが決まったと、先日聞きました。

 中学1年生から親元を離れて暮らすというのは、親も心配が尽きませんが、その子の覚悟も相当なものだなと、他人事ながら感心して聞いていました。

 私が親元を離れたのは大学生の時で、中学から離れることを思えば随分と猶予がありましたが、それでも下宿ではなくお寺に住み込みの共同生活をするという選択をしたので、始めの頃はいろいろと戸惑いました。

 特に傷ついた、というかショックだったのは、自分で自分の価値をどう置けばいいのかわからなくなったことです。

親元にいるころは、ただ自分がいるだけでその存在を肯定してもらえていました。けれどひとたび家族とは違うコミュニティに入ると、そこにいるだけで存在を肯定してもらうことは難しくなります。何か「役に立つ人間」にならないと、その場所では認めてもらえません。

 もしそのような場所で、家庭と同じような肯定を他人に求めようものなら、手厳しく跳ね返されてしまいます。それは「甘えだ」とみなされてしまうのですね。

 こういうことは別にお寺じゃなくても、進学したり就職したり、環境が変わるごとに大なり小なり起こることだと思います。そしてその環境にうまく身を置けないと、すごく苦しい思いをしてしまう。

 先輩のお子さんは、小さい頃からよく知っていて、その子がまだ12歳でそんな環境に身を投じるのかと思うと、他人ながら、「もう少し親元にいればいいのに」なんて勝手に心配したりしています。しっかりした子なので、きっとのびのびと楽しめるだろうとは思っていますが。

 自分を振り返ってみて、あの頃どうやって新しい環境の中で、自分がこの場に「いてもいいんだ」と思えたかというと、結局「役に立つ人間」になれたから、とかそういうのではなく、その場にいた人たちと仲間になれたからだと、今になってつくづくそう思います。

 よく言われる「同じ釜の飯を食う」というやつで、みんなで色々なことを乗り越えながらともに生活をしていく中で、段々と自分の居場所が出来てきた。

 そして、今ではすっかりその場を離れてしまいましたが、「あの頃のみんな」とは今でもずっと仲間の関係が続いています。

 

 若い頃なんかに「生きている意味は何だろう。」「生きる目的はなんだろう。」と考えたりします。考える年代によって答えは変わるものでしょうが、今の私が思うのは、「いい仲間を持つこと」なんじゃないかと思います。

 仲間がいるところが自分の居場所になる。家庭だったり職場だったり、そこにいる仲間がいい仲間であれば、その場所はいい居場所になる。

 「人は一人では生きていけない」。よく聞く言葉ですが、だからこそ仲間を持つことが人生において大きな意味を持つのだと思います。

 そして、仏教でもやはり「仲間を持つこと」が重要視されます。長くなってしまうので、これについてはまた次回書きます。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 合掌