今週のごあいさつ

自分が所属しているところ

 人という動物は、自分の所属している所を優先したいと思うものです。所属の規模が小さい順で行くと、まずは家。その次は住んでいる地域になるのかな。そして都道府県の規模になって、最終的には国になる。

 誰だって心の中では、自分の住んでいる地域が他の地域より優遇されていると思いたいし、自分の国が他の国より優れていると思いたい。

 だけど誰もが誰も、自分の所属しているところを優先させようとしてしまうと、他の誰かや、どこかと衝突してしまう。

 だから心の中では自分本位なことを考えていても、あんまりそれを表には出さなかったり、あるいは衝突をしたとしても、条例や法律と言ったルールに則って解決をしよう、という流れが世界に出来ています。

 そこには、やったもん勝ち、言ったもん勝ちを防ごうという意図があります。まして暴力で解決を試みるといったことは選択肢には入れてはいけないことになっています。

 だからこそ、ここ数日の世界事情は本当に驚きました。いくら交渉手段の一つとして力をちらつかせることはあっても、本当にそれを実行するなんて、「それはやらないという約束で世界はまとまってるんじゃないの?」と学校で教えられた世界の歴史を学んだ身としては思ったわけです。

 なんだか自分のいる現代が、思っていた以上に脆いものなんだ、ということを感じています。

 当事国の批判や、平和の訴えなど多くの人が個人として思うところはあると思うのですが、仏教ではこの状況をどう見るのだろうと考えてみたいと思います。

 まずは、自分の所属している所を優先したいという気持ちは誰にでもあるとしても、それに取り付かれてしまうと、その想いは苦しみになります(煩悩・執着)

 そして、もし武力行使してでも自分たちの思うようにしたいと思って、その通りになったとしても、そのように自分の思うとおりになる状況がいつまでも続くわけはない。(諸行無常)

 そして、どんなに自分の所属しているところが大事でも、よく考えてみたら、国はあなた自身じゃない。県もあなた自身じゃない。住んでいる地域もあなた自身じゃないし、家もあなた自身じゃない。(諸法無我)

 所属しているところが自分自身ではないという見方が出来れば、「絶対に自分の思うとおりにしなければいけない」という考えを、もう少し冷静に見ることが出来る。

 別に世界中の人たちが仏教徒になって、仏の教えを学べば世界が平和になるとは思いません。だけど、こういった教えを選択肢の一つにもっておけば、物事に執着して頭がカッとなって、周りが見えなくなるようなことは、少し抑えられると思うのです。

 この度の戦争で亡くなった方の冥福を祈るとともに、このような状況が一日でも早く終わることを切に祈ります。

 

 せっかく春の訪れを感じる季節になって、嬉しい気持ちになっていたのにな、って思います。

今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。 

合掌