今週のごあいさつ
坊主憎けりゃ
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いということわざがあって、例えに坊主を使われているところが心中穏やかではないのですが、誰か憎い人がいたら、その人に付属しているものまで憎く見えるという言葉です。
「俺はあいつに嫌な目にあわされたから許せないんだ。それをあいつはあんな格好つけた服装しやがって。乗ってる車も嫌みったらしい気取った車だし、なんか資格を取って人のためになることをするとか言っているらしいが、どうせあいつのやることなんだから中身なんてない、うわべだけのことなんだろう。」極端に言うとこんな感じでしょうか。
とにかく憎い相手に関しては、その全てを否定しないと気が済まない、みたいな感情を、人は持つことがあります。私も経験ありますが、一度言い始めてしまうと、途中で引っ込みがつかなくなるんですよね。
よくよく考えてみれば、憎いのは坊主だけで袈裟はなんにも悪いことはしていません。袈裟に怒鳴ったってその坊主が改心するわけではありません。
あと、「坊主」というお坊さんを一括りにした言い方をしていますが、嫌いなのは坊主の○○さんだけで、お坊さん全体が悪い人ばかりではない。
だから本当を言えば坊主である○○さんだけを憎んで、あとのものは関係ないとしてしまえばいいのですが、人の心はそんなに上手に割り切れるものではなくて、元が嫌いなら付属も憎まないと気が収まらないというのが人情なのかもしれません。
だけど自分自身の経験から言うと、付属しているものまで憎もうとすると、どこかで気持ちに矛盾が生まれてくるのですね。「別にこれは悪いものじゃないよな」という気持ちがどこかにあったりする。
あとその人の良いところもけなさないと気が済まないのですが、良いところだとわかっているのに逆のことを言わなきゃいけないというのは、けっこう気持ちが窮屈になるのですね。言いながらも「これは違うよなぁ」とか思ってしまったりする。
人を憎むにはそれ相応の理由があって、憎まれる相手には当然非もあるわけです。だけど、どんな人でも100パーセントの悪人なんていうことはないわけで、だいたいの場合は自分にとって都合の悪い人だったりするわけです。そういう人を1から10まで否定しようと思うと、どこかで自分の気持ちに嘘をついてまで否定をしないといけない。
だから全否定しないと気が収まらないかもしれないけれど、「それはそれ、これはこれ」と良い悪いを分けて考えられるようになれた方が、心の窮屈さはなくなるんじゃないかなぁと思うのです。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と正反対の言葉が「罪を憎んで人を憎まず」だと思います。たまたま悪い縁が重なって悪い結果になったのだから、その本人を憎むのではなく、罪という結果になった悪い縁を憎もうというものです。
ここまで達観した心をみんなが持てれば世の中にあふれる苦しみも随分減るのでしょうが、それはよっぽど心の修練を積まないとなぁ。
罪を憎んで人を憎まず、までは出来なくてもせめて「坊主憎んで袈裟を憎まず」ぐらいになればいいなぁ、なんて考えています。
まぁ、あんまり坊主を憎んでほしくはありませんが。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。 合掌