今週のごあいさつ

仏教でいうところの「慈悲」

 前に何かで聞いたのですが、タンスの角に足の小指をぶつける時がありますよね。あれすごく痛いですよね。あれがなぜ起きるかというと、自分が認識しているよりも1センチほど足が外側に動くからなんだそうです。

 そうすると、「ここにタンスの角があるな」と頭でわかっていて、それを避けたつもりで足を出しても、自分で思っているより1センチ外側に足を出してしまうので、小指を角にぶつけて痛い思いをするんだということです。

 あとこんなこともありませんか?自分は何の間違いもなくしゃべっていたはずなのに、人から「今言い間違えしたよ。」と指摘されて、「いや、ちゃんと言ったよ。」と言い返したら、話を聞いていた他の人からも「いや間違えてたよ。」と言われてしまい、釈然としないまま言い間違えを認めるしかない時。

 あれけっこう悔しいですよね。自分では間違えたつもりはないのに。

 さて、そういう例を出して何が言いたいのかというと、人って自分が思っている以上に色々間違ったりしちゃっているものだということです。

 言い間違えもあれば、スマホのボタンの押し間違えもある。うっかり忘れることもあるし、手順を誤ることもある。

 自分ではちゃんとできてるつもりでも、人から見たら案外そうでもないし、そもそも人間はそんなに完璧にものごとをこなせるものでもないのだと思います。

 ただ、どうしても人は、自分は間違っていると思いたくない、もっと言うと、自分は正しいと思いたいものだったりもします。

 だから、何かに足の小指をぶつければ、そこに物があるのが悪いと怒りだすかもしれないし、言い間違えを指摘されたら、絶対に自分は間違えてない!と自分の間違いを認めなかったりする。

 あるいは人と意見が違った時に、絶対に自分の主張する方が正しい、と全く人の意見を聞かない人もいたりします。

 ただ、正しい・間違っているというのは、その人のたどってきた縁によって変わってくるものです。

 ある人には正しいと感じるものが、別の人には正しくないと感じられても、なにもおかしいことはありません。

 だけど自分は間違っていない、自分は正しいと思い込んでしまうと、相手の主張する正しさを認めることが出来ない。けれどそれは相手がたどってきた縁そのものを否定してしまう危険もあるのです。

 人と接していれば意見が違うことも多々あります。ただそれに対して、頭ごなしに人の意見を否定するのではなく、相手がその意見にたどり着く縁があったんだと少し思ってあげるだけで、お互いを認め合いながら意見をまとめていけるのではないかなと思います。

 最近「自分こそ正しい」という意見に溢れていて、しかもその正しさが、相手を否定するための道具として使われている気がして、あまり愉快な気持ちになれないことがあります。

 最近になって「多様性」を重視する意見もよく聞きますが、本当に多様性を重視するなら、相手がたどってきた縁に対する敬意をもつことや、自分と違う人を受け入れる寛容性を、もっと学んで身に付けなければいけないんじゃないかと思っています。

 難しいですけれど、これを身に付ければもっとみんなが生きやすくなるんじゃないかと思っています。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。         合掌