今週のごあいさつ
たとえそれが最初は偽善だとしても
秋のお彼岸になりました。昨日今日と多くの方がお墓参りをされています。
しばらく雨続きでしたが、しばらく落ち着くようですし、気温もそれほど暑くないのでお参りしやすいんじゃないかと思います。彼岸花もちゃんとお彼岸にあわせて咲いています。こんなに異常ともいえる暑い夏だったのに、狂うことなく時期になったら花を開かせるその正確さに驚かされています。
さて、先日こんな話を聞きました。ある人がいつもコンビニに行くと、おつりはレジにおいてある募金箱に入れるようにしていたのだそうです。ただある時、その行いは偽善なんじゃないかと思い始めて、そうするとだんだん募金をしても意味がないような気がしてきて、結局そのあと募金することをやめてしまったのだということです。
ただ、そういった一連の心の動きが気にはなっていて、知り合いのお坊さんにそのことを話したのだそうです。
すると、そのお坊さんの答えが、「それは自分が偽善だと思わなくなるまでやったほうがいいよ。」というものだったということです。
これを聞いて、わたしもなるほどなぁと思ったのですが、確かにこういう思いをもつことはありますよね。何かいいことをしようと思ったり、親切にしようと思った時に、頭の片隅で、「これは偽善なんじゃないか。ただの自己満足なんじゃないか。」と思ってしまうこと。
そんな思いが出てきてしまうと、ちょっと行動することを躊躇してしまったり、気持ちが冷めてしまったりするものです。
ただ、良いことをしたり、人に親切にするという行為自体はいいことなんですよね。だけど、「いいかっこをしたいから」とか「のちのち自分の得につながるから」といった思いが少しでもあると、偽善とか自己満足といった言葉が頭をかすめて、行動に起こせなくなってしまいます。
だけど、その行為自体はいいことなのだから、動機が偽善的なものであるにしろ、ちゃんとそれを行って、それを継続していくうちに、偽善や自己満足を越えた心からの親切な行いになるのなら、それは本物の善行になるんだ。ということが「偽善と思わなくなるまでやったほうがいい」ということなのだと思いました。
仏教の大切な修行の一つに「忍辱(にんにく)」といって辱めを耐えるというものがありますが、これは人からの嘲笑を気にしないというだけでなく、自分が自分自身の行動をあざけったり、意味のないもののように思うことも耐える意味があるんじゃないかと、このエピソードを聞いて思いました。
自分でやっていることを自分自身がなめてはいけない、というのは私も結構思っていることです。
何をするにも自分の心次第。そうであるならなるべく心は善なる方向へ。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。 合掌