今週のごあいさつ
「今を生きる」とか言いますが
スマートフォンの普及で写真や動画を撮る機会が増えました。私も子どもが生まれてからたくさん子どもの姿を写真に撮ってきました。たまにその写真や動画を見返すと、「こんなに顔が丸かったかな。」とか、「このころは随分幼いなぁ。」とその都度感慨にふけったりするのですが、まだたどたどしくしか言葉をしゃべれない長男の動画を見たりすると、「あぁ、もっとこの頃の動画を撮っておけばよかったな。」と思うことがあります。
今と違ってちゃんと喋れないし、何を言っているのか聞き取れないこともあるけれど、そういう感じでおしゃべりしていた頃を、もう自分は忘れてしまっていて、それをいくつかの動画を見て思い出すと、なんだか忘れてしまっていることを惜しいと思うのです。
同じようなことで、数年前のお寺の写真を見てみると、まだ工事をする前の境内だったり、工事が始まって山を削り始めたころや、古い寺務所の解体の時などが写っています。
これを見ても、「あぁ、工事の前はこんな境内だったな。」とか「工事を始めたころは、まだ決まっていないこともたくさんあって大変だったな。」と思い出すのですが、やっぱり、「もっと記録の写真を撮っておけばよかったな。」と少し後悔してしまいます。
だけど子どもはまだまだ成長の途中ですし、工事だって終わっていない。だから後々悔やむのであれば今この瞬間をたくさん記録すればいいのに。と思うのですが、なんとなくそれはしなくてもいいか。みたいな気持ちになります。
なんでそんな気持ちになるのかというと、「今こういう状況なのは当たり前だから。」です。
当たり前の日常をわざわざ写真に撮ってもつまらない。だからなんとなくそのまま日々が過ぎていく。
だけどいつかどこかの時点で、「あの時もっと写真に撮っておけばよかった!」ときっと思うとおもいます。なぜならその頃にはこの「今」がもう当たり前ではなくなってしまっているから。
当たり前だった「今」が過ぎ去ってしまうと、それが途端にもう手に入れることのできないかけがえのないもののように錯覚してしまって、惜しむ気持ちが出てしまう。
そういうことを考えると、人間というのはつくづく今しか生きられないのだなぁということに思い至ります。
今しか生きられないから、過去を懐かしんだり惜しんだりして、今しか生きられないから、未来も今と同じように続くような気がしてしまう。
そしてそんな「今」を別にあんまりありがたいものだと思わずに日々を過ごす。
よく、「当たり前の日常に感謝を」とか「その日一日を一生懸命に過ごす」ということが言われていて、もちろんそれは大切なことだと思うのですが、たとえそんな生き方をしても、今をいつまでも覚えてはいられないし、たまに昔を惜しんだりすることもあるんだと思います。それが人間を生きる(変な言葉ですが)ということなのかなと思っています。
先日の節分祭もですが、コロナに対する危機感が薄まり、いろんなところで「3年ぶりに再開しました」という行事やイベントをやっています。
それで、やってみてわかりましたが、3年たつと色んな事が変化していて、なんというか浦島太郎みたいな「変化の誤差に戸惑う」ような気持ちになりました。
そういうことから「今」とか「変化」について想いを廻らせやすくなっているのかもしれません。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
思い返せば、金毘羅院にとっては工事とコロナの3年間でした。
合掌