今週のごあいさつ
言葉の枠から解放される
9月に入って朝が涼しくなりましたね。秋の虫も鳴き始めて少しずつ秋めいてきています。
毎朝まだ暗いうちからお寺の門やお堂を開けるのですが、少し肌寒いくらいの今の気候が心地いいです。
さて、ちょっと難しい仏教哲学のお話を書きます。
よく「悟りを開く」と仏教では言いますが、言葉は聞いたことがあってもそれがどういう状態なのかというのはよくわかりません。
それで別の言い方に言い換えられたりするのですが、その中の一つに「世界をありのままに見る」と言われることがあります。
それでもまだよくわからないですよね。なのでもう一つ言い換えてみると「言葉の枠から解放される」と言えると思います。これもわかりにくいと思うので解説していきます。
人間は他の動物と違って言葉を使います。言葉を使ってコミュニケーションをはかり、言葉で記録し、言葉で表現する。言葉なしには人間の文化はありえません。
しかし仏教ではこの言葉が足かせとなって苦しみを生み、世界を歪んで見せるのだと言います。どういうことでしょうか。
言葉は物の名前を付けます。名前がつけばそのモノがその場になくても、共通の言語圏であれば名前を言えばお互いがそのモノを認識することが出来ます。
例えば外に出て風景を見る時、空があり雲があり、山があり建物があり地面がある。もっと細分化して言うと、青い空だとか入道雲だとか、山の木々にもそれぞれの名前があり、建物も家やビル、病院、学校など用途によって様々な名前があります。
人は名前を聞いたり見ることによってそれがどんなものなのか理解することが出来ます。
でも、こんな風に考えることも出来ます。
それぞれに名前がなければそれは一つの世界なのです。空や雲や地面ではなく、それら全てが世界の営みなのです。
それをそれぞれに名前を付けることによって「空」「雲」と世界を分けていくことになります。
そしてそうすることによってどうなるのかというと、「世界」と「私」が別々のものとなってしまう。
「世界」と「私」あるいは「あなた」と「私」が別れると何が起こるかというと、「私」を中心とした世界が出来てしまう。
私中心の世界は、私の思うとおりにならなければいけない世界。もし私の思うとおりに物事が運ばなければ怒りや悲しみ、つまりは苦しみがわいてきます。
しかしもし、言葉で世界を分けなければ、「私」も大きな世界の営みの一つとなります。
人は言葉を使う以上、そんなに簡単に言葉で世界をわけることをやめられません。
だから仏教では言葉を使わない座禅や瞑想を行ったり、表面上の意味よりももっと深い意味を持った真言や念仏を唱えて言葉を超える修行を行うのです。
言葉を使う習慣を持ちながら、その言葉を超える修行をすることにより言葉の枠から解放される。つまりは世界をありのままに見ることが出来るようになる。それが「悟り」なのだということです。
と難しいことを書いてきましたが、つまり仏教は言葉に対して懐疑的な姿勢をとってきたのだということです。
しかし現代は、仏教の思想とは逆に、言葉に偏りすぎているのではないかと言われています。
来週は現代にとっての言葉のあり方について書いてみようと思います。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌