今週のごあいさつ

春のお彼岸、でした。

 お彼岸の最終日となりました。お彼岸の中日である春分の日以降、お天気がぐっと良くなり、あんなに寒かったのがうそのようですね。

 お墓参りされる方も大変多く、お寺の永代供養墓にはたくさんのお花がお供えされ、華やいでいました。

 昨日はお彼岸の合同供養法要を行い、こちらも多くの方にお参りいただきました。何年か前、この合同供養法要を始めたころは、まだお墓に入られている方も少なく、2,3人でお勤めをしたこともありましたが、その頃のことを思い出すと、お墓を通してずいぶんたくさんの方とご縁を結ぶことができたなと、感慨深くなります。

 春と秋のお彼岸や夏のお盆、故人の命日などお墓参りをする機会は多々あります。近年、永代供養やお墓じまいと、お墓を取り巻く環境が大きく変化していますが、故人の遺骨を納めている場所にお参りをするという営みは、お墓の形態は変われども簡単にはなくならないのではないかと思っています。

 遺骨を納めているからと言って、その場所にその人の魂があるのかどうかはわからない。お参りに行ってもこちらの声が届いているかどうかもわからない。だけど亡くなってしまった大切な人と繋がれる場所として、お墓はこれからの時代にも必要とされると思っています。

 世界各国の様々な宗教で、色々な死後の世界が語られています。天国のあり方にも様々なバリエーションがあります。そのどれが正しいとか間違っているとかは、実際に亡くなってみないとわからないので、真偽については何とも言えないのですが、自分が死んでしまった後、残された人たちにどう思ってほしいかは、なんとなく想像することが出来ます。

 例えば自分が亡くなったことで、残された人たちが悲しくて悲しくて、毎日泣いて暮らすようなことは、ちょっと申し訳ないかなと思ってしまいます。(多分そんなことにはなりそうにないですが)

 かといって、亡くなったら「はい、終わり!」といってきれいさっぱり忘れられてしまうのは寂しすぎる。

 できればあんまり負担にならない程度に、適度に悲しんだり、あとは悪口でも楽しかった思い出でも何でもいいので、ちょこちょこ思い出して話題にしてくれたらいいなぁ、なんて思っています。

 そしてそういうきっかけとして、年に何回かあるお墓参りをする機会というのは実に最適なんだよなぁと、疑似死者目線で感心しています。

 どんなに大切な人でもいつかは亡くなってしまう。悲しいけれどもそれは仕方のないことで、そんな思いを味わったり、いつかは自分もだれかにそういう思いをさせることになる。それが自然の営みなのですが、そんな中でお墓は故人と自分をつなぐ装置となります。

 その場を提供する場所として、お寺としてもお参りしやすい環境を整えていかなければいけないなと、改めて考える春のお彼岸でした。

 自分が手を合わせる姿を見せないと、後の人たちがそういった習慣をもてなくなってしまいます。そうなると、自分の死後、誰も手を合わせてくれなくなるのはさみいしいですから、お墓参りにしろ、お仏壇に手を合わせることにしろ、やっぱり大切ですよね。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。     合掌