今週のごあいさつ
施して報いを願わず 受けて恩を忘れず
ずっと前、まだ20歳になる前に京都で小僧修行をしていたころ、その日の私は食堂(お寺では、「じきどう」と読みます)当番で、朝から台所でお昼のおうどんを準備したり、洗い物をしたり、晩の食事を準備したりということを一日の仕事としていました。
その日は色々調子よくできて、うどんの出汁をほめてもらったり、夕食のおかずも今まで作ったことのないものに挑戦してみたりしていました。
お寺の賄いは20人分ぐらい準備しないといけないので、準備片付けが結構忙しく、夕方の5時までにそれらをきっちり終わらせるのには中々骨が折れるのですが、段取りよく物事を進めて、時間通りに自分の中では完璧に仕事を終わらせました。
そういう時は自分自身を誇らしく思い、自信もつきますし、なんなら皆にもっと褒めてもらってもいいくらいに思っていました。
ところが、ちゃんとやったと思っていたご飯の炊飯を、「炊飯スイッチ」ではなく、誤って「保温スイッチ」の方を押してしまっていたらしく、炊飯器の蓋を開けてみると、お米ががちがちになってしまっていました。
それで、「ご飯がちゃんと炊けていないぞ」と注意を受けたのですが、この時はすごくやるせない気持ちになりました。
自分の中では、しっかりやったつもりでした。段取りもしっかり組んだし、さぼりもせず、丁寧に一生懸命やって、ちゃんとできたつもりでいたのに、たった一つのミスで、そのすべてが台無しになってしまったような。そしてお寺の職員さんからも「ちゃんと出来ていないやつ」と思われてしまうことにも、すごく残念な気持ちになりました。
あと、これはちょっと違う話になりますが、確か太宰治の短い小説だったと思うのですが、これまで清廉潔白に生きてきた女性が、思いを寄せる男性のために盗みを働いてしまった。それが見つかってしまい警察に逮捕されてしまうのですが、その時その女性が警察の取り調べに対して、「盗みをしてしまったのは悪いことだけれど、今まで自分はこんなにも真面目に生きてきたのだ。」ということを訴えるのですが、何をどう言おうとすべて言い訳じみて聞こえてしまう、そういう虚しさだとか悲しさを感じる物語を読んだことがあります。
これを読んだ時も、「ああ、この気持ち、なんかわかるなぁ」と思いました。
誰にでも、褒められたりしないし、わざわざ自分から言わないけれども、自分の中では「頑張っているぞ」とか「真面目に正しく取り組んでいるぞ」といったことがあると思います。
そして、それは本当にすごいことだと思いますし、そのことについて自分自身を誇ってもいいと思います。それくらい行いとしては尊いものです。
本当はそのことについて、人からもっと褒めてもらいたいし、認められてもいいことだと思います。
ただ、それをしているからと言って、悪いことが起こらないとか、人から正当な評価を受けられるわけではないのです。
ちょっとした不注意や、めぐりあわせの悪さで、嫌な思いとか、思いもしないトラブルにあうことだってあります。
だけどそんな時、「自分はいつもこんなに頑張っている」という思いが強すぎると、「なんで自分がこんな目に合わないといけないんだ!」という残念でやるせない気持ちが大きくなってしまいます。
そんな思いを持ってしまうと、普段の行い自体は尊いものなのに、かえってそのことで自分が積み上げてきたものを台無しにしかねないことにもなってしまいます。
先代院主が書いた日めくりカレンダーに、「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず
」という言葉があります。
人は正しいことをすると、その行いに対して無意識にでも、その報いを求めてしまうものです。ただ、その思いが大きすぎると、かえって正しさを損なう恐れもあります。
そんな気持ちのバランスをとるためにも、「施して報いを願わず 受けて恩を忘れず
」という言葉は、胸に刻んでおかなければいけないなと思っています。
ちなみに、炊飯に失敗したお米は、そのあと先輩のお坊さんが上手にお粥にしてくれました。あの時は自分の失敗で頭がいっぱいでしたが、そうしてフォローしてくれたことを今ではありがたい思い出として持っています。
受けた恩への感謝も大切ですね。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。 合掌