今週のごあいさつ

想像することの責任

 先週、先々週と体と言葉についてのお話を書きましたので、今週は心のお話を。

 真言宗では三密と言って、体(印を結ぶ)言葉(真言を唱える)心(イメージをする)を一致させて即身成仏、この身のままに仏になることを目指します。

 仏教では「心が世界を作っている」と説きます。

 いや、世界はもともとそこにあって、自分の心が世界を作っているわけはない、と普通であれば考えると思います。

 ただ、同じものを見ていても、私とあなたではそれを見て感じることが違います。同じものなのにある人はそれを善いものだとみるし、ある人はそれを悪いものだと見る。

 なぜそのように見方に違いが出るのかというと、人によって積み上げてきた縁が違う。縁が違うというのは、それまでの経験や出会いによって物事の見方、考え方に違いが出るということで、そうなるとその人独自のフィルターをもって世界を見ることになります。

 そうすると、世界は同じものでも、人によって見え方、感じ方が違うので、「世界は心が作っている」というのです。

 そして仏になるということは、ありのまま世界を見ること。つまりフィルターを通して物事を見ないので、あらゆることに感情を揺さぶられなくなるのが、仏の目で世界を見るということになります。

 心というのは厄介で、自分の中のことなのにコントロールするのがとても難しい。自分でいろいろ考えているつもりでも、実は心が勝手に動いて、考えたくもないことが頭にぐるぐる回ったり、考え方の癖ができてしまって、それに心を縛られたり。

 心がコントロールできないためにたくさんの苦しみが生まれてしまいます。

 そして、心の中は他人には見えません。思うこと、考えることは他の人にはわからない。だから何を考えようと、何を想像しようと別に構わないわけです。人に言えないような後ろ暗いことも、欲に駆られたようなことも、頭の中で好きなだけ想像しても、誰にも迷惑はかけないような気がします。

 ただ、心が世界を作っているのなら、心が自分自身を作っているとも言えるわけです。

 嫌なこと、汚いことばかり考えて生きていれば、そういう見方や行動をする人になってしまうものです。

 だからいくら心の中が自由だからと言って、自由奔放に心を暴れさせてはいけないのです。

 村上春樹さんの小説で、『海辺のカフカ』という本があります。この中で、ある登場人物が主人公に「想像するのにも責任がかかるよ」といったセリフがありました。

 若い頃に読んだときは、その意味がよくわからなかったのですが、今こうして考えてみると、好き勝手に想像すること、自分の都合のいいように世界をみることばかりしていると、世界をすごく歪めて見てしまう恐れがある。無責任な想像というのは場合によってはその人を損なってしまうことにもなりかねない。ということを言いたかったのではないかと思います。

 想像することへの責任、普段はなかなか意識できないかもしれませんが、少し心にとどめておいた方がいいかなと思います。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。        合掌