今週のごあいさつ
供養をするということは
お盆の最中ということでたくさんの方がお墓にお参りをしています。
また昨日はお盆の合同供養を行い、参加してくださった方々と一緒にご供養のおつとめをしました。
こうしてご供養する機会が多くなると、「供養するってどういうことなんだろう」と考える機会も増えてきます。
先週もご供養をする意義みたいなことを書きましたが、今週はもう少し本質なことを考えてみようと思います。
「供養」というと、どうしても宗教儀礼のように感じる方もいるかもしれません。仏式にしろ神式にしろ、またはその他の宗教にしろ、その宗教のやり方に則って行う故人の弔いを供養という。そんな風に考える方も多いかと思います。
だけど、そう考えると、「自分はどの宗教も信じない」という人は供養することに宗教を感じて、嫌がる方もいるかもしれません。
だけど、私は逆だと思っています。「亡くなった大切な身内を弔いたい」という想いが先に来て、そこに宗教儀礼を行うことで、その想いを形にする。それが供養をすることだと思います。
どれだけ故人に対しての想いが強くても、ただ悲しんだり偲んだりするよりも、手を合わせたり、経を唱えたりといった儀礼があった方が、想いが形になりやすい。
そういう意味で儀礼というのは大切ですが、ただ、それをしなければちゃんとした供養にならない、というのも違っていて、やっぱり先に想いがあってこその供養だと思うのです。
私の師僧が「祈るという行為は、人間の自然な心の営みです。」とお話をしていましたが、故人を弔うというのは、まさに「自然な心の営み」です。
そこに儀礼を行うことで想いを形にし、そしてお墓やお寺が祈りの場を提供する。
儀礼や場所だけ見ると、風習やしきたりが目に付いてしまい、古臭くて窮屈そうに感じるかもしれませんが、ほんとうはもっとシンプルな、「忘れてないよ」とか「ありがとう」という気持ちのあらわれが供養なのだと思います。
今年のお盆も皆様が気持ちよくご供養ができますように。
そして、金毘羅院がそのような場になれているのなら、なによりありがたいことです。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌