今週のごあいさつ
人の根本にある心の営み
4月になり、あちこちで満開の桜を見かけ、春の訪れを感じます。
コロナウイルスも、ウクライナの侵略も思った以上に長く続いて、いつまでこの状態が続くのだろうと、なかなか気持ちが安らぎませんが、こうして季節の移り変わりを、特に一年で一番華やかな季節の訪れを感じると、「いつまでも同じ状態であることはない」ということを実感でき、少し前を向けるような気がします。
さて、金毘羅院の墓地には「慈愛の碑」という水子供養のお墓があって、そこは誰でもお参りできるお墓として案内しています。このお墓は年中お花やお供えが絶えないお墓で、いつも誰かがお参りされています。
このお墓の横に、今年の初めからポストを設けました。生まれてくることが出来なかった命に対して書いたお手紙を入れるポストです。
水子供養とは、生まれてくることが出来なかった命に祈ることです。それは、親しい人が亡くなることとはまた別の悲しみがあります。よく聞くのが「ちゃんと生んであげることが出来なかったことを申し訳なく思う。」という自責や後悔を伴う悲しみです。
こういった思いを自分の中でため込まずに、祈りとして出せる場所として、この慈愛の碑を建立したのですが、ただ祈るだけでなく、思いを言葉として出した方が、気持ちが安らかになる方もいるのではないかと思い、この度ポストを、「慈愛のポスト」という名前ですが、作ることにしました。
思いや考えというのは、自分の頭の中だけでグルグルと回していると、結局堂々巡りで答えにたどり着かなかったり、嫌な思いを考える癖がついてしまって、気がつくと同じ事ばかり考えてしまい、気持ちが重たくなることがあります。
でも、それを言葉にすることで、思いの輪郭がはっきりすることもあります。
人との会話で言葉にしてみたり、ノートに考えを書き出してみたり、あるいは手紙として表したりすることで、頭の中でぐちゃぐちゃしていたことがスッキリしたりします。
なので、この慈愛のポストも、そういった形でお役に立てるのではないかと思って建てました。先日春のお彼岸でしたが、その時にはたくさんのお手紙が入れられていて、あぁ、少しでもお役に立てたかなと思って嬉しい気持ちになりました。
「最近の人は手を合わせることをしなくなった」とか「信仰心がなくなった」と言う人もいますが、それは単に、手を合わせる必要を感じなかったり、あるいはどこで、どのように手を合わせていいのかわからない人が多いのではないかと思っています。
金毘羅院の慈愛の碑は、特にお参りを強制することはなく、「良ければ自由にお参りしてください」と案内をしていますが、先に書いたように、いつも誰かが、それも若い人ばかりお参りしています。
私の師匠が、「祈るというのは人の根本にある心の営みだ」と教えてくれました。お寺というのは、その心の営みを提供する場だと思っています。その一つの象徴が、この慈愛の碑なんじゃないかと、ポストを作ってより思うようになりました。もし必要な方があればご利用ください。
さて、今月の17日に春季大祭を行います。あわせて四国八十八か所お砂踏みも開きます。詳細はお送りした案内やホームページにて紹介しておりますので、こちらもよければお参りください。詳細はまた来週書きます。
今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。
合掌