今週のごあいさつ
あった方がいいと思ってもらえるお寺
ここ最近寒い日が続いています。一時期は暑いぐらいに気温が上がりましたが、春の始めぐらいの気温に戻りました。
地球温暖化の影響なのか、年々暑い日が増えてきています。そうなると「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉が通用しなくなるだろうなと思っているのですが、今年はまだ言っても差し支えなさそうです。
大学生のころ、私はすでに頭を丸めて、得度というお坊さんになるための儀式も済ませて、京都のお寺から大学に通っていました。基本はお寺のお手伝いをして、大学で学んで、という生活ですが、たまに他の大学の人と食事をするような機会もありました。
他の大学生からすると、同年代のお坊さんの学生というのはわりと興味をひかれるらしく、色々と質問されたりしました。
朝は何時に起きるのか、どんな修行をするのか、お化けは見えるのか。などなど。
興味を持ってもらえることは嬉しく、その場は楽しくお話が出来るのですが、ただその後に「自分は無宗教だから」と言われることがよくありました。
そういう言葉を聞くと、当時は自分のやっていることを否定されたように聞こえ、けっこう傷つきました。なんとかそういう思いを変えられないものかと試みたこともありましたが、叶うはずもなく落ち込むこともありました。
時代が変わり同年代は信仰をしなくなっている。そんな時代に僧侶としてどうしていけばいいのか。そんな不安もあったのだと思います。
そんなことを今思い返してみて、「日本人が自分は無宗教だと思うのは別に悪いことじゃないよな」と自分の考え方が変わったことに気が付きました。
日本人が「宗教」と考えるとき思い浮かべるのは、たぶん決められた時間に礼拝をする大勢の人たちとか、日常的に教会に行く人たちといった海外の信仰だったり、あるいは日本のカルト的な宗教にはまっている人だったりするのではないでしょうか。
日本の信仰のあり方というのは、たぶん昔からこういうものではなく、もっと生活に浸透した、文化的なものなのだと思います。
だから「この神仏を信仰している」と思うことはなくても、お正月には初詣に行くし、安産の祈願や七五三などの儀礼もするし、亡くなったら仏式や神式などの違いはあれどお葬式もする。
「宗教」というイメージと重ねると自分は信仰をもっていないだろうから無宗教なのだろうと思うのは、うなずけることじゃないかなと今の自分は思います。
思い返してみたら、「自分は無宗教だ」といった他校の友人も、京都で色んなお寺にお参りできるのは楽しいと言っていましたし、何かを信仰しているという意識はなくても、お寺に行けば落ち着くし、お賽銭を入れてお願い事だってする。
おそらく昔から神社仏閣というのは一般の人たちからそういうあり方として見られていたのではないかなと思います。
つまり、お寺の教義とか儀礼というものはよくわからないけれど、それでもありがたいし、あった方がいい場所なんだと。
それでも時代が変わり、お寺なんてなくてもいいという人も増えているのだと思います。そんな中でも金毘羅院は、あった方がいいお寺としてあり続けるために、これからも頑張っていきたいなと思っています。
まだ寒いですが、境内の花が色々と咲き始めてきました。よかったらお花見がてらお参りしてください。
合掌
大平山金毘羅院