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誰もが考えたことがあるというか、漠然と思ったことがあるんじゃないかと思うのですが、「生きている意味って何だろう」という問いが、長きにわたって考え続けられてきました。
この問いに対する答えも様々に挙げられています。
幸せになるため
人と繋がるため
誰かの役に立つため
などなど
ただこの答えも限定的というか、人生のどこかの部分を切り取って出された答えで、この答えで生きる意味のすべてを網羅できるわけでもなさそうです。
それくらい、人が生きるというのは思っている以上に複雑にいろんな要素が絡まりあっているものです。
それでも人は生きていることにとどまらず、様々なことに意味を見出そうとしてしまいます。
そもそもの疑問ですが、なぜ意味を問う必要があるのか。意味を問う意味とは何か。
ちょっと哲学的になってしまいましたが、意味がある方が、気持ちが定まるというか、動きがとりやすいんじゃないかと思います。
何かするときに、ちゃんとやる意味があった方が動きやすい。何でこれをやっているのか意味が分からない時には動きにくい。これはなんとなく実感としてあると思います。
人はラベル付けが大好きです。感情や動機に名前や意味が付いていると安心する。最近よく「言語化」という言葉を聞きますが、これもラベル付けのことで、言語という箱に思考や感情を入れることで理解をした気になれる。
そもそも言葉というものがラベルを付けることなので、仏教ではこのことをかなり危険視しています。本来名前のないものに名前を付けることで分かった気になったり、所有した気になる。それが大きな執着につながるというのですね。
話を元に戻すと、色んなことに意味を求めるのは、ラベルを付けて安心をしたいから。ラベルが付いていないと不安になったり混乱してしまいます。
だけど意味づけを優先してしまうと、意味に動きが引っ張られてしまうこともあります。もともともっと自由だったものが、自分でつけた意味に縛られて、「こうしなければいけない」と執着をおこしてしまう。
こういうことって、もっとよくよく考えておかなければいけないと思うのです。
それで、自分なりにこの意味を求めることへの対処法を考えてみました。
それが「今作っている途中です」です。
生きている意味は? 今作っている途中です。
こんなことをやっていてどんな意味があるのだろう? それも今作っている途中です。
つまり、意味を先に持ってきて、それをなぞるのではなく、生きながら、やりながらその意味を作っているという意識を持つのです。
そうすればある時点で、「今までやっていきた意味はこれだったのか」と思うことがあるかもしれない。
そしてその見出した意味も、またどこかの時点で変わってくることを心得ておく。そういうことが肝要なのかなと思っています。
なんだか最近意味を求めたり求められたりすることが身の回りで多かったので、少し腰を据えて考えてみました。
良ければ選択肢の一つとして、「今作っている途中です」使ってみてください。
合掌
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金毘羅院墓地「照光苑」について
昭和37年、それまでは岡山県新見市を中心に活動をしていた先代の住職が、
新しい布教の場を求めて托鉢修行を発願いたしました。 その時に倉吉の地で
知り合った方から現在の金毘羅院の基礎となる土地を譲り受け小さなお堂を
建立しました。これが当山の始まりです。
その後、数度の建て直しを経て平成2年に現在の本堂が落慶されました。現
在ではご祈祷を中心に参拝者のご相談を聞くお寺として、地元や近隣の県よ
り多くのお参りを頂いております。
また平成23年からは金毘羅院墓地「照光苑」を開き、永代供養墓「還阿堂」
を建立いたしました。
参拝の仕方はこちらから