今週のごあいさつ

2つある名前を使い分ける

以前にも書いたことがあるのですが、人は自分で思っているよりも自分に厳しくしてしまうようです。よく「他人に厳しく自分に甘い」という言葉を耳にしますが、実際には逆で、例えば友達から「自分はこんなことをしてしまってダメな人間だと思う」といった相談を受けたら、おそらく「そんなことないよ。誰だってそういうことはあるよ」と声をかけると思います。しかし同じ悩みを自分が抱えている場合は、やはり相談をしてくれた友人同様、「自分はダメなんじゃないか」と思い悩んでしまったりします。自分に対しては「それくらい大丈夫なんじゃない?」と思ってあげられにくいんですよね。

 自分に厳しくしていると自己評価というのは低くなってしまいます。そうなると他人からの評価を求めるようにもなってしまいそうです。だけど人からの評価を気にしすぎて生きるのも息苦しそうですよね。やはり自分で自分のことを認めてあげることが一番いいような気がします。

 それで、以前そういうことを書いた後に、僕自身はどうなのかなと考えてみたら、そういえば自然とこんなことを考えてやり過ごしているなと気がつきましたので、今日はそのことを紹介してみます。

 お坊さんって名前が2つあるんです。1つは生まれた時に親からつけてもらった名前。戸籍に登録する、皆さんも同じように持っている自分の名前です。

 そしてもう1つはお坊さんの名前。これは得度(とくど)といって僧侶になるための儀式を経てつけてもらった名前です。もともとの名前は「裕典 ゆうすけ」で僧名は「裕全 ゆうぜん」です。親類や昔からの友人は「ゆうすけ」で認識していて、お坊さんとしての僕を認識している人は「ゆうぜん」で呼びます。

 それで気がついたのですが、自分自身この二つの名前をそれとなく使い分けているようなのです。例えば何か責任のかかるようなことをやらないといけないとき、心の中で「まぁ裕全ならちゃんとやってくれるだろう」と思ったり、ちょっと今日はやる気が出ないなという時は、「裕典もがんばりすぎるとあとがもたないからな」と思ったり。名前を使い分けながら自分自身で励ましてみたり妥協をしてみたりしています。

 これをする利点は自分のことを客観的に見ることができるということ。「自分はダメなんだ」と思ったり、「こんなこと、自分には出来ない」と思ったりするときは自分が積み重ねてきた色んないいことを思い出しにくくなってしまいます。だけど自分を客観視できていれば「いや、あの時も大変だったけどちゃんと乗り越えられたから今回も大丈夫だ」と思うことができます。

 それから、「人にわざわざ言うほどのことではないけれど、自分の中で頑張ってやっていること」というものが誰しもあると思います。人に「こんなことをやっている」と言ってしまうと、なんだか褒められたいがためにやっているような気になってしまいますし、けれど誰からもその頑張りを認めてもらえないと、「本当にこんなことやっていても意味があるの?」と疑心暗鬼になってしまいます。

 そんな時に例えば僕のように名前の使い分けが出来ると、「いや、裕全はなかなかこれに関しては頑張ってやっているよな」と自分で自分を認めてあげることができます。

 こんな風にお坊さんに名前が2つあるのは便利だなと最近思っているのですが、じゃあお坊さん以外の人はそういうことができないのかというと、そんなことはありません。こんな風に考えたらいいんじゃないかなと思うことがあります。

 ちょっと長くなってしまうので来週続きを書きます。

 今週も最後まで読んでいただきありがとうございました。

合掌